あんかーちょうちん 浅田顕 Vol.1 ~その波瀾万丈な選手人生~
レーシングチームの思い出話や裏話を、居酒屋でいっぱい引っ掛けながら振り返る、酔いどれ記録『あんかーちょうちん』。ブリヂストンアンカーチームに関わってきた人々の、今だから明かせるいろんな話を聞いてしまおうという、言わばアンカー呑み話です。栄えある第1回目は、浅田顕さん。
1980年代後半に選手としてブリヂストンサイクル自転車競技部時代に活躍。その後フランスに渡り4年間を欧州プロとして走ったのち引退。その後アンカーのチーム監督として、低迷していたチーム成績を最高のものへ引き上げました。現在は『エキップアサダ』代表として「日本チームでツールドフランスを!」を旗頭に、若手育成プロジェクト『EQADS』の指揮を中心に活動しています。
圧倒的に強く、波瀾万丈な高校生時代
――さて、選手として、そして監督としてもブリヂストンの強さを実証してきた浅田さんですが、そんな輝かしいキャリアは、同時にかなり波瀾万丈だったとも聞いてますが。
子どもの頃からツーリング好きの自転車小僧でしたね。中学では新聞配達をしながら、実力派のロードレーサー先生に弟子入りして、地獄の練習で地脚を磨いて。高校では、入部した自転車部があまりにも弱かったので、籍だけを置いて、実業団登録をして名門チームラバネロに所属しました。当時は、東日本実業団レースが、今のJプロツアーのような感じで強豪選手たちが争っていたレースだったので、そこに出て。1位ブリヂストンの鈴木光広、みたいなファクトリーチームに混じって、高2で5位になりました。高3になってからは、自転車部にいい後輩が入ってきたので、こいつらと一緒にインターハイ行けたらいいな、と思って高体連登録をし直して、関東大会とか勝ちまくったんです。でも、インターハイ出場が決まったら、顧問の先生が「僕、行けないから」って言い出して。
ーーええっ!? せっかく生徒が頑張ってインターハイに出られることになったのに、先生が行きたくないから出場しないなんて学校があるんですか? ふつう学校をあげて応援するところじゃ...。校舎に応援の垂れ幕と下げたりして。
いやいや、顧問の先生がいないとインターハイは出られないので、生活指導の先生に相談したら、その先生にも「なんでお前のためにそんなことしなきゃいけないんだ」と言われましたよ。それで、しょうがないので、また実業団に登録し直したんです。全日本実業団レースに出ようと思って。そしたら、今度は「高校生は出場不可」というクレームついちゃって。就職してから出場するにしても、実業団選手として就職するには高校3年時の成績が重要で。3年時に大きなレースにひとつも出場できていなかったので、「ヤバイな」と思いましたね。
練習前に門で待ち伏せ、ブリヂストンに入る
――強すぎる高校生と、やる気の無さすぎる部活顧問の、激しすぎる温度差がゆえの悲劇ですね......。
それで何をしたかというとですね、上尾のブリヂストンサイクル本社の門の前で待ってて、選手を待ち伏せするんですよ。高3の夏休みに、毎日、正門の前まで40km自走で行って待ってるんです。練習は13時からだったので、門で待ち伏せして、お願いして連れて行ってもらったんです。 でも、その初日からハンガーノックになっちゃって。途中で饅頭買ってもらったのをすごく覚えてます。そのころはバイクペーサーだったので、デカいバイクで追いつかせてもらったり。そんなことを何日か続けてるうちにけっこう速くなって、ブリヂストンの選手の中で3番目で走るようになっちゃって。これで「おれ速いんじゃないか」って。高3の成績は残せなかったのだけど、その夏休みの練習で、ブリヂストンの選手たちに認められたんです。それで、内定貰って、とりあえず入社試験だけ受けに行って、翌日に採用通知をもらいました。だから、どうやってブリヂストンサイクルのチームに入ったのか、と問われれば、「門で待ち伏せして入りました」ということになります(笑)。
――なんだか少年マンガのような無茶なストーリーですね。よい子のみなさんはマネしないようにっ! で、同期には誰がいたんですか?
自転車部の同期は藤田晃三なんですが、僕、知らなかったんですよ。インターハイで4位になったらしいんですが。岩手のものすごい田舎から来てて、初めて会った時、あんまりしゃべんないやつなんだな、と思いました。で、練習の時「こんなに信号少ないところなら、練習いくらでもできるな」って話しかけようと思ったら、逆に「こんなに信号多いんじゃ練習できないよな」って話しかけられて(笑)。あと、入社当時の思い出としては、新入社員研修には本社(当時は日本橋)の女子社員も参加するとききつけ、前日の練習で落車して救急車に乗ったにもかかわらず、包帯ぐるぐる巻きで参加しましたね。一般社員と自転車競技部の区別もあまりなく、社員旅行では山梨の温泉に行ったり、運動会があったりと、レース活動以外でも行事がたくさんありました。会社にすごい勢いがありましたね。
――ドキドキの女子社員のお話はひとまず置いておいて(笑)。チーム内では、意識していた選手なんかはいませんでしたか?
鈴木光広さんという先輩が強烈でしたね。鈴木さんはオリンピックも行ってますし、強かったですね。練習でも強烈でした。熊谷往復だ、なんて話になると、鈴木さんは始め60km/hで先頭引くんですよ。もちろん多少追い風ですけど、60km/hなんて出す人、今いないですよ。だからね、もう日本のロードレース界のレベルは全然上がってないですね。
バブルに踊り、ツールも忘れかけた2年目。そして......
ブリヂストンに入って1年目は調子良かったんですよ。全日本実業団でも4位ぐらいに入ったし。走るレースはだいたい入賞しましたね。でも、2年目はイマイチだったんですよね。1年目の冬に遊び過ぎちゃって。なんですかね、やっぱり待遇いいんですよ、会社。お金貯まるんですよ。車も買ったし。
夜の街も好きだったんで。とくに渋谷。ディスコがあって、ナンパもあって。電車で行くと終電ないからほとんど始発で帰ってくる。もともと自転車を始めたきっかけは、テレビで見たツール・ド・フランスに憧れてだったんですけど、世の中バブルだし、とりあえず実業団入れたし、お金貯まるしで、そのころはもうツールのことなんか忘れちゃってた。それが19歳。当然ですが2年目に成績が低迷しました。このままやっていてもしょうがないじゃん、っていう気持ちにもなりました。当時はあと3~4年選手をやって、引退して、職場に復帰するというのがブリヂストンの自然な流れでしたし。そんな3年目に画期的なことが起きたんです...。
――チームの選手を待ち伏せしてまで実らせた熱い入社劇。バルブに踊って一気に冷めてしまったレースへの思い。そんな波乱万丈すぎる浅田さんに今度は何が起こったのか? 次回をお楽しみに!
(文/中村浩一郎 写真/辻 啓)
浅田顕
エキップアサダ代表。ブリヂストンサイクル自転車競技部の選手として活躍後、1990年に国内プロ登録。1992年に渡欧しフランスでのプロ選手として4年間にわたり本場のレースを戦い、1994年にパリ~ツール完走、1995年に引退。翌年にはブリヂストン アンカー サイクリングチームの監督に就任、最強のチームを作り上げる。現在はエキップアサダ代表として、日本からツールドフランスへ参加できるチームの実現に向けた活動を行う。
取材協力/南国風居酒屋 たろちゃん家
今回のあんかーちょうちんは、ブリヂストンサイクルの上尾本社からほど近い場所にある『南国風居酒屋 たろちゃん家』にて。沖縄料理を中心とした肴に舌鼓をうちながら、オリオンビールから泡盛へと杯が進んだ浅田さんでした。
※本コンテンツはアンカーメディアの過去記事を再掲したものです。
※飲酒運転は自転車であっても違法です。自転車の飲酒運転は絶対にやめましょう。
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