あんかーちょうちん 浅田顕 Vol.2 ~フランスでのプロ生活、そしてチーム監督へ~
今だから語れるよもやま話を、お酒の勢いでぶっちゃけてもらおうじゃありませんか! というチョイ呑みインタビュー『あんかーちょうちん』。ゲストは前回に引き続き、浅田顕さん。バブルに踊り、ツール・ド・フランスへの夢も忘れかけていた入社3目に起きた「画期的な出来事」とは!?
災い転じて、フランスへ
ーーバブルに浮かれた3年目に起きた画期的なことといいますと?
チームが、なんとフランス人のコーチを呼んだんですよ!
ーー、、、、。なんか、これまで浅田さんのドラマチックすぎる人生の話をさんざん聞いちゃって、それくらいじゃあまり驚けなくなっちゃってますが(笑)。でも、確かに、チームを強くするために、レースの本場フランスから、本物の知恵と経験を投入できるのは画期的ですね。
そのコーチは結局、チームをボロボロにして帰ったんですよ(笑)。彼を呼んできた鈴木(光広)さんですら、しょっちゅう喧嘩してましたからね。でも、そのコーチが来て、ひとつだけ良いことがあって。それは、チームをフランスに連れて行ってくれたこと。「短期ではダメなんだ」とフランスで長期間走らせてもらえて。
ーーダメコーチのおかげで、憧れのフランスデビューとは! 自転車部の顧問といい、浅田さんの人生の岐路には、ダメな指導者が欠かせないことになってますね(笑)。そのフランスでの経験のおかげで、また勝ちまくる日々に?
いや、3年目は、日本での成績もガタガタで。鈴木さんはかろうじて 根性でオリンピック行ったんですけど。僕はもう本当に辞めて、実家を継ごうと思ったんですよ。でも、辞める前に「せっかくツール・ド・フランスに憧れて自転車始めたんだから、最後に本場の文化、ヨーロッパのアマチュアの世界を見てから辞めよう」と思ったんですね。前年にフランスで知り合った方にコンタクトして、クラブチームを紹介しもらい、そこに所属しました。初めてフランスのアマチュアレースの世界を見て、これはすごいと思いましたね。僕らと同じような年代の子のプロへの憧れは、ものすごい強かった。アマチュアにも階級があって、1から4までカテゴリーがあるんですが、どんなに人間的にダメなやつでも1カテゴリーだったら「すげえな」ってなる。それぐらい違うんです。これはやっぱり続ける価値があるなと思って。それからフランスで半年で20レースぐらい出て、日本に帰ってきました。
プロ選手としてヨーロッパへの挑戦
ーー本場フランスの熱を体感して、心の覚醒があったと?
それはもう。行った瞬間に、「なんか日本でやるのは違うな」って気持ちになりましたね。その半年間のフランスは、会社を休職して行かせてもらっていたんですが、帰ってきてすぐ辞めましたよ。1990年に宇都宮市でロードの世界選手権が行われたんですが、ちょうどその時、日本人6名をプロ選手に転向させるというプロジェクト、JPP(ジャパン プロロード プロジェクト)が立ち上がって、僕はその一人に引っかかったんです。プロ選手になること自体にこだわりはなかったのですが、日本のチームとしてヨーロッパに行く、というコンセプトには共感して、すぐにでもその活動に加わりたかった。会社員なんで、12月1日にボーナスが出るんですが、どうしても我慢できずに、11月15日に辞めちゃった。あと半月待てばボーナスが入ったのに。とにかく1日も早く、勢いのあるほうに合流したかったんですよね。
ーーでも、浅田さんのことだから、JPPでもおとなしくはしていなかったんでしょ??
いや、それが、JPPが2年後の世界選手権が終わったらヨーロッパでの活動をやめてしまって。僕は立場として宙ぶらりんになってしまった。しょうがないから自分のプレスブック(活動報告書)をまとめて「こういう選手なんで契約してください」とまわったんです。多くの知人たちに助けてもらったおかげで、なんとかフランスのプロチームと契約することができました。そこからはもう、つなぎつなぎ、綱渡りの4年間という感じでしたね。4年間で4チームと契約しました。最初のチームのお給料は当時、日本円で月14万円ぐらい。フランスの最低賃金の契約。しかも、1年目のチームは結局未払いで(笑)。まさに低空飛行でした。
ーーそれって、1年間無収入ってことですか?しかも異国の地で? 厳しすぎる再起ですね......。
いえ、生活はリッチでした。日本のスポンサーがついてたんで。日本でいう2LDKのアパートを借りて、車も持ってましたし。まぁ、そういう時代でしたからね。でも、選手としては、「これは敵わないな」という感じでした。レベルが違いすぎたんです。じつは、2年目の契約時点でもう辞めようと思っていました。自分がそこまで到達できる選手ではないというのを悟ってしまって。次のことをずっと考えていました。それで、「自分はもうダメなんで、若い選手を育てたい」とスポンサーに相談して、翌年、選手を続けながら、日本で『リマサンズ』というチームを作ったんですよ。そして、2年後、28才で計画的に選手を引退しました。そうしたら今度は、当時のブリヂストンサイクルの部長さんから、チームの監督をやってくれないか、という話が来たんです。「自分のチームがあるから」と断ったら、「コーチでもいいから」とまで言うので承諾して。96年にブリヂストンサイクルの監督に就任しました。
監督としての戻った"古巣"での第二の人生
ーーちょうどアンカーというブランド、チーム名になった当時ですよね。アンカーとともに、浅田さんの監督人生も本格的に始まったと。部長さんからは、チームをどうして欲しいと託されたんですか?
部長さんは、ただ「チームを強くしてくれ」としか言わないんです。強くするってどういうことかな、と思いましたよ。当時はそれなりに強い選手もいましたし。言うこと聞かないやつも何人かいたけど。97年には実業団で1位になって、98年シーズンインも、レースで1、2を獲ったので、わりといいのかなと思っていたんですが、その年の全日本選手権ではぼろ負けしたんですよ。20位以内までに誰も入れなかった。これで呆然としちゃって、次の目標すらなくなってしまった。そんな時に思いついたのが、
『日本のチームで、ツール・ド・フランスに出ましょう』
ということだったんです。
ーー全日本選手権惨敗の失意のどん底から見出した目標は、なんと"目指せツール・ド・フランス"。常人の理解をはるかに超えるその思考回路が見据える明日はどっちだ!?
(文/中村浩一郎 写真/辻 啓)
浅田顕
エキップアサダ代表。ブリヂストンサイクル自転車競技部の選手として活躍後、1990年に国内プロ登録。1992年に渡欧しフランスでのプロ選手として4年間にわたり本場のレースを戦い、1994年にパリ~ツール完走、1995年に引退。翌年にはブリヂストン アンカー サイクリングチームの監督に就任、最強のチームを作り上げる。現在はエキップアサダ代表として、日本からツールドフランスへ参加できるチームの実現に向けた活動を行う。
取材協力/南国風居酒屋 たろちゃん家
今回のあんかーちょうちんは、ブリヂストンサイクルの上尾本社からほど近い場所にある『南国風居酒屋 たろちゃん家』にて。沖縄料理を中心とした肴に舌鼓をうちながら、オリオンビールから泡盛へと杯が進んだ浅田さんでした。
※本コンテンツはアンカーメディアの過去記事を再掲したものです。
※飲酒運転は自転車であっても違法です。自転車の飲酒運転は絶対にやめましょう。
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