あんかーちょうちん 浅田顕 Vol.3(最終回)~世界で戦えるチームになるために~
アンカーに深く関わってきた人々が、酒のせいにして昔の話をぶっちゃけちゃうチョイ呑みインタビュー『あんかーちょうちん』。今回は、監督になった浅田顕さんのエピソードを引き出します。チーム監督就任2年目、全日本選手権で惨敗を喫した浅田監督率いるアンカーチーム。その再生のため浅田監督が打ち出したのが「日本のチームでツール・ド・フランスへ」! その超絶思考、伝説の監督の真意に迫ります。
大嫌いだった二人のレーサーを引き抜き、世界へ
ーーしかし、全日本選手権で惨敗した結果、ツール・ド・フランスへ!って、一体??
もう中途半端な目標設定だと、大した成績を残せないですからね。そこで、自分が自転車を始めたきっかけと、ヨーロッパで走っていた時の目標に立ち戻って、ロードレース最高峰のツール・ド・フランス出場を掲げたんです。どうしても達成したい目的を明らかにするというところから始めるしかない、と。
当時はツールドフランスへの出場に必要なのは、金銭的には4億円程度のレベルだったんです。でも、いろいろ調べて、企画書を作って、いろんな人に見せたんですけど、誰一人相手にしてくれない。まあ当たり前ですよね。これを実現するために、とりあえずしなくちゃならないことは、有無を言わせないほど強いチームを作ることだなと思いましてね、二人のレーサーに電話したんですよ。それが、橋川(健)と藤野(智一)です。うちに来てくれ! って。
ーー日本チームでツール・ド・フランスに出よう! という浅田さんのぶれないコンセプトはここで生まれたんですね。そのために、当時、ものすごく強かった二人を引き抜いて、絶対的に強いチームを作ろう、と。
そう。そしたらその次のシーズン、1999年は全部勝ちましたよ、全部。ジャパンカップは逃しましたけど、他のものは全部勝った。藤野は全日本を獲って、橋川はツールド北海道を獲って。もう誰が見てもこのチームは一番強い、となりましたね。
この二人をなぜ入れたかというとですね、僕、この二人を大っ嫌いだったんです。なんで嫌いかっていうと、レーサーとして大嫌い。こいつらには絶対勝てないなと思ったんで、嫌いだったんです。だから欲しかった。2000年も強かったですね。その年からヨーロッパに行き始めたんですよ。本当にヨーロッパでやれるのかって。で、2001年からフランス・ノルマンディに拠点を作って、世界参戦です。
もちろん日本では一番でないといけない、それが海外遠征の条件だったので。そこは緊張はしましたね。同じ予算の中で、外国に行って、かつ日本にいるときよりも成績を出さなくてはいけないという使命があって。
当時は最高位以外ありえなかったんです。選手にはかわいそうなことしたなって思いますよ。田代(恭崇)が2位、3位になっても、みんなでガッカリしてね。「なんだよ!」なんてね。まあそうやってチームは強くなって、日本籍で初めてコンチネンタルチームに登録をして、ヨーロッパのレースに挑戦を始めたわけですよね。今じゃ残せない成績を残して。今でいう1、2のクラスで勝ってますからね。
ーー日本ではトップに。海外でも勝利という成績を残した。有無を言わせないチームは作った。それでも、日本チームでツールに!という目標は遠いものですか?
ツール・ド・フランスに出るためには、基本的に何をすべきかというと、プロコンチにならないといけない(注:UCI プロコンチネンタルチーム=ツール・ド・フランス出場のため最低限必要なチーム登録)。当時ならTT2というレベルなんですけど、これにならないと、やっていけないんです。TT2になれば、とりあえずTV放送には流れます。そこまで行かなかったら、スポンサー価値がないんです。TVにも出ないし、ワールドワイドなリザルトにも載れない。日本で何をしたっていうのは価値がない。とにかくそこまでに行かないといけない。
ツールを走るまでの費用は4億円程度はかかると言われていました。そこをどう埋めるかという話は散々しました。そのために自分は社長からもアドバイスいただきましたし、自分なりにやれることは全部やったんです。ブリヂストンがヨーロッパで抱えている工場、もしくは法人のなかで、それぞれの国の選手を何人かずつ出してもらって、それでプロコンチを作りましょうよ、という話まで持ってったんです。
でも、最終的にダメだったんです。会社のしくみ上できなかった。このときに自分のレベルではやれるとことはやりつくしたと思い、それが会社的にできない、となった時に、自分がこの会社でやれることはもうないと思いました。でも選手には、もっと上行ってツール出ようよ、という約束をしている。ツールに行きたい、日本のチームでツールに行きたい、っていう気持ちが、炸裂して、いい成績を残せたわけだし。これはもう僕がチームを出るしかないですよね。それでチームを辞めたんです。
レベル底上げのためには、レースとしてのピラミッドが必要
ーーそれで独立してエキップ・アサダを立ち上げられたんですね。ツール・ド・フランスに日本のチームで出場するという目標はまだ実現できていませんが、それでもブリヂストン・アンカーでは別府史之選手、そしてエキップ・アサダでは新城幸也選手と、ツールで戦える選手を育てられましたよね。
別府は圧倒的でしたね。 高校1年の頃から、「ぼくはヨーロッパでプロになりたい」という意志を持って、それをずっと言い続けられたんで。高3の終わりにマルセイユに行かせました。高校を卒業してからは、田代のもとに行って1年走ってね。そこから道が開けて行ったんです。とは言え、全体のレベルの底上げのためには、レース界においてのピラミッドが必要なんです。ワールドツアーを頂点とするならば、日本人であれば日本のリーグの頂点になったら、次のステップに行ける。そういう体制が必要なんです。上を目指すなら、その場にいかなければいけない。それしかない。その場で、百戦錬磨で戦ってるやつに敵いっこないんですよ。
渡欧当時、ブリヂストンが戦っていたレースも、1クラスだったので、競争は激しかったですし、出てるメンバーもスゴかった。その中で、幸也(新城幸也)が優勝したレースは2位はニコラス・ロッシュだったしね。ミヤタカ(清水都貴)が勝った時も2位はブリース・フェイユだった。当時チームは、ちゃんと戦ってやっていたので、ヨーロッパでの評価は高いんです。今は、どこもワールドワイドなリザルトに載れないじゃないですか。だから、 日本のレベルは変わらないんだと思うんですよ。
ーー当時、ブリヂストンチーム監督だった頃と、エキップ・アサダとして独立されてからの監督業とは違いますか?
ブリヂストンのチームではチームの予算があって、そこを好きに使わせてもらってた。どこに行こうが、何をしようが、予算に合えば問題なかった。でも、独立してからは、自分でお金を集めてやらないといけないんで、ストレスが100倍違いますね。
これ、仕事としては対極なんですよ。お金を集めることと、レース活動するってのは、対極なんです。お金を集めるのは、いかに選手を安く集めて、活動を安く抑えるかってこと。レース活動は、お金を使って選手を育てること。現場的に言えば、いくらあってもレースには足りないです。合宿だって1日でも多くやりたい、1日でも走りたいし、上限がないんですよね。もう自分の給料は一番後になりますよね。だから、いくら集めても足りない。
ーー実際問題、ツール・ド・フランス出場には、日本人選手によるドリームチームであれば、なんとかなると思いますか?
『ドリーム』なんかじゃないですよ。今できるのは、現存する選手の力を限りなく集めた、いわば『現実』のチームです。というのも、いまの日本には、まだ世界と戦える実力はない。以前、ミヤタカや幸也が世界と戦っていた頃の、2006年から2009年ぐらいのエキップ・アサダ、その時代に戻さなくちゃいけないんですよね。
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今後も浅田さんの動きからは目が離せません。さて、浅田さんとのよもやま話はこれにておしまい。あんかーちょうちんはこれからも、いろんなひとのいろんなことにお酒の力を借りて迫ります!
(文/中村浩一郎 写真/辻 啓)
浅田顕
エキップアサダ代表。ブリヂストンサイクル自転車競技部の選手として活躍後、1990年に国内プロ登録。1992年に渡欧しフランスでのプロ選手として4年間にわたり本場のレースを戦い、1994年にパリ~ツール完走、1995年に引退。翌年にはブリヂストン アンカー サイクリングチームの監督に就任、最強のチームを作り上げる。現在はエキップアサダ代表として、日本からツールドフランスへ参加できるチームの実現に向けた活動を行う。
取材協力/南国風居酒屋 たろちゃん家
今回のあんかーちょうちんは、ブリヂストンサイクルの上尾本社からほど近い場所にある『南国風居酒屋 たろちゃん家』にて。沖縄料理を中心とした肴に舌鼓をうちながら、オリオンビールから泡盛へと杯が進んだ浅田さんでした。
※本コンテンツはアンカーメディアの過去記事を再掲したものです。
※飲酒運転は自転車であっても違法です。自転車の飲酒運転は絶対にやめましょう。
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