オリンピアンの系譜 第1回 鈴木光広 〈後編〉 "不屈の魂"

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入賞をめざして挑んだソウル1988オリンピック

鈴木光広の後編は、彼がいかにライバルから恐れられた選手であったかを物語るデータの紹介から始めたい。

下の表(鈴木からの提供)は、31歳で引退するまでに10位以内となった82レースの勝率を示すものだ。なんと、1~3位にからんだ回数が56、その割合はなんと70%である。当時、ライバルからは、「徹底的にマーク」された。

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「これを見たら、自分がほかのチームの監督でも、鈴木から目を離すな、ついて行け、心中しろ、脚を使わせろ、と指示する」と鈴木自身、言う。

全日本選手権は85年も勝利し、2連覇。多くのレースで勝利を積みあげていくなか、87年、第1回ツール・ド・北海道では個人総合2位、個人総合ポイント1位、山岳ポイント2位、団体1位。この大会で、ライバルチームが包囲網を形成し、鈴木の優勝を阻んだことはオールドファンの間では語り草になっている。
ロサンゼルス1984オリンピック代表こそ逃したが、このころ、日本代表としてアジア選手権、世界選手権ほか、ヨーロッパのレースにも派遣。84年と86年に出場した"ツール・ド・ラヴニール"は、若手の登竜門といわれる世界最高峰のステージレースだ。その山岳ステージは、「ただただ苦しかった」が、まさに三谷から見せられた雑誌の写真のままに、山の頂上までファンが詰めかけていた。

「いちばん苦しいところに、その大変さをわかっている人たちがいて声援を送ってくれる。ファンが選手を支えているのは間違いない、と」

ロードレースの魅力を肌で感じた瞬間だ。そして、NHKがツール・ド・フランスのダイジェスト放映を開始、日本国内でロードレースの認知度が高まったのもこのころ。機材面ではビンディングペダルが登場し、鈴木はいち早くルック製のペダルを導入したという。

「ポラール(の心拍計)を使うようになったのも、日本ではいちばん早かったと思う。それから、オークリーのサングラスも。グレック・レモンがサングラスをかけたんで、一気にみんな使うようになった」

88年、再びオリンピックイヤーがやってくる。ソウル1988オリンピックのロードレース、日本代表枠は3。鈴木が最有力候補に挙げられていたことは言うまでもない。そして、オリンピックへの挑戦はブリヂストンサイクルあげての取り組みとなり、前年にはフランス人のドミニク監督がチームに招へいされた。
「集団でどう走るか、みっちりやった」うえで、1~3月にかけてフランスで合宿と実戦。シーズンはじめのビッグレースであるパリ~ニースに参戦し、完走(127位)を果たして帰国した。
さて、ソウル1988オリンピック代表は、全日本選手権で一発選考されると公表されていた。6月、迎えた全日本選手権は日本サイクルスポーツセンター(CSC)での120km。オールラウンダーの鈴木には「たいしたことはない」コースだ。

「修善寺(CSC)の登りで先頭に立てないまでも、登りの強い選手に置いていかれたことはない」

しかし、このときばかりは不安があったという。ドミニク監督の指導は集団走行に重きが置かれ、耐乳酸性を向上させる練習が、「まったくといっていいほどやれていなかった」のだ。
スタートすると、予想していたとおり、身体が重い。中盤、集団が大きくふたつに分かれ、鈴木は第2集団に取り残された。ここで、後半に残しておいた体力をすべて使うことを余儀なくされてしまうが、遮二無二に走って前の集団に合流することができた。その後は遅れを取ることなく、もっとも得意とするゴールスプリント勝負へ―― 優勝に届くと考えて8番手から仕掛けたが、下りゴール手前の最終コーナーは5番手で通過、なんとか2人をかわす。優勝した円谷義広(日本鋪道)、2位の三浦恭資(島野工業)、そして3位の鈴木がソウル1988オリンピックの代表に決定する。

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ソウル1988オリンピック日本代表オフィシャルブックに記された自転車競技日本代表メンバー、鈴木の横には日本自転車競技連盟の現会長である橋本聖子さんも

バルセロナ1984オリンピックの代表落ちから、周囲の期待を背負って戦ってきた4年間がひとまず終わった。やり切った感は十分あったが、3位という成績に、「本当に代表に選ばれるのか」と不安がつのる。朗報がもたらされたのは数日後。受話器から聞こえてきたのは「決まった!」のひと言。思わず「え......だれが?」と口にしてしまったという。

「決まってるだろう! お前だよ――」そう言われた瞬間、応援してくれた家族や会社関係者、ファンの喜ぶ顔が浮かんで涙があふれた。

9月、ついにそのときが来た。

出発前、会社の同僚からもファンからも、「オリンピックを楽しんで来い」という声をたくさんかけられたという。しかし、鈴木にはそうも言っていられなかった事情があった。それまで世界選手権やヨーロッパの大きなレースに出場する機会は何度もあったが、その多くがリタイアに終わっていたからだ。

「このオリンピックでは、何がなんでも上位に食い込みたい、と」

しかも、ソウル1988オリンピックのコースは鈴木に合った平坦基調の196.8㎞だ。8位までに入賞することができるかもしれない―― 鈴木は開会式にこそ参加したが、無駄に疲労したくないと選手村と食堂を往復するぐらいで、他の競技などはいっさい観戦しなかったという。
本番のレースでは、中盤以降、1分~1分30秒差で逃げる集団を、鈴木のいる大集団が追いかける展開が続いた。徐々にタイム差を詰めながらラスト2㎞地点まできて、最終局面に入る。逃げ集団との差は30秒。そのとき、約12mあった道幅が半分の約6mに狭まった。集団の前をキープしようとする者と割り込もうとする者との小競り合い。

「ちょっとでもコントロールを誤ったら大落車。レースを台無しにしてしまうと思うと、緊張は最高潮だった」

案の定、後方からは「ガシャガシャ!」という落車音が聞こえてきた。そのせいもあって、鈴木の前方の間隔が広くなり、ラスト約500mからは第2集団の3番目という最高のかたちになった。ここから持ち前のゴールスプリントを発揮できる――。

「ところが、自分の腰に手をかけて、後ろに引っ張るやつがいた。そのせいで、スパートをかけるテンポが遅れてしまった」

第2集団は、第1集団に届かず、鈴木は第2集団の10番目でゴール。あとから第1集団は15人であり、自分の順位が25位であると聞かされた。

「腰に手を掛けられなければ16位だったかもしれない」

口惜しさは残ったが、「16位も25位も同タイムの完走扱いでそう変わらない。自分のなかでは16位ということで収めることにした」。

「オリンピックを走った感想? 入賞狙いの戦い方を選択して、最後は第1集団に追いつくことができなかったわけだけれど、世界のトップ選手と戦って25位。日本代表としての責任を果たすことはできた、という満足感で銅メダルを獲得したぐらいうれしかったことを覚えている」

ソウル1988オリンピックの6年後、31歳で惜しまれながら引退。ブリヂストンサイクルに勤務しながら、ときにホビーレースに参加することがなかったわけではない。しかし、鈴木は言う、「自分は自転車競技の過酷さに魅了された」のだ、と。

「練習にさっと30分とか1時間とか、それは自分にはできない。自転車に乗るのは最低2時間とれたとき」

昨年、鈴木は久しぶりにホンキのレースを走った。ツール・ド・おきなわ市民100kmである。きっかけは、やはりオリンピック。

「実は10kgくらい太っちゃったんだ。2020年が迫ってきて、元オリンピック代表がこれじゃいけない、と」

ツール・ド・おきなわにはLSDで身体を絞って臨んだが、登りで両脚ともに攣って一度は自転車を降りてしまう。しかし「負けたくない」と再び自転車にまたがった。

「ちぎれても、そこで集団をつかまえれば、前へ上がっていくことはできる。テクニックは衰えていなかった」

結果こそ300名中141位でも、「レースは楽しかった」と顔をほころばせる。

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ソウル1988オリンピックの日本代表選手団の公式ウエア。左胸に日の丸とオリンピックマークが輝く

東京2020オリンピック、勝つのはだれだ!?

さて、最後に東京2020オリンピックロードレースの展開を鈴木にたずねてみた。
開口一番返ってきたのは「(選手にとって)想像できないきつさになる」だろうということ。武蔵の森公園(東京都府中市)をスタートし、富士スピードウェイ(静岡県小山町)に至る244㎞のコースは、富士山麓と三国峠を含み、獲得標高が4865mにも達する。

「ヨーロッパの名だたるワンデーレースと比べてもきつい、最難関と言っても過言ではないコース」

加えて、日本の夏の猛烈な暑さ。そして、レースの行われる7月25日が、ツール・ド・フランスを走りきったわずか6日後と考えられること。

「この条件で、どんな展開で、どの国のだれが勝つのか、とよく聞かれるけれど、簡単に予想できるものではない」としながらも、「勝負どころは最後の三国峠(201km地点、標高1117m)。ここで後ろの集団が追いつけず、先頭集団が5人以下で通過すれば、その5人がゴールまで行って勝負になる」。ここで、鈴木が注目するポイントは「もっとも多くの選手を送りこめる国でも、最大5人」であるということだ。

「それが5カ国程度。あとは、4、3、2、1人と少なくなっていく。アシストの少なさから、エース同士のガチンコになり、エースがつぶれて伏兵が優勝する、というのもおもしろいんだけれど......。そう言うと、レースを知っている人からは、それは昭和のレースだ、と。平成のレースはやっぱり前半、逃げが容認されて、終盤に一気に差が詰まって三国峠で追いついてエースが勝つ、と言われちゃう(笑)」

鈴木がまだ現役だった30年余り前、昭和後半のレース展開を振り返ると、「各チームのエースがガチンコで勝負していた」と言う。しかし現代は、メイン集団が逃げ集団との差を確実に捉えられる距離を保ってレースを進め、ゴール近くの勝負どころでスパートした小集団でのゴール勝負というのが大方のシナリオである。

「そうなったとしても、ラスト30km、7km続く三国峠を軽々と登る選手がきっと現れるだろう、と楽しみにしている」そして、「ツールの期間中、勝敗に関係なくなった選手の中から、着実に体調を整えて東京2020オリンピックのタイトルを狙ってくる選手がいてもおかしくない」と鈴木はみている。

「とはいえ、ドラマ的にはツールの覇者やヒルクライマーといわれる選手たちが加わって、見ごたえのあるメダル争いをしてくれるのが一番」

令和最初のオリンピック。だれが日本代表に選考されるのかを含めて、がぜん期待が高まる。

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《前編はこちら》


鈴木 光広  Mitsuhiro Suzuki

1963年、福島県古殿町に生まれる。学法石川高校に入学後、自転車競技に取り組み、チームロードでは高2、高3とインターハイ連覇。81年、ブリヂストンサイクル入社。平地も登りもこなるオールラウンダーで、とくにゴール勝負に強い選手としてライバルから恐れられた。88年にソウルオリンピックのロードレースに出場し、25位の成績を収める。31歳で引退。現在は、ブリヂストンサイクル ブランド推進本部フェロー。

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