オリンピアンの系譜 第2回 藤田晃三 〈前編〉 "1992年の熱い夏"
ソウル1988オリンピックに出場した鈴木光広に続き、チームブリヂストンサイクリングはバルセロナ1992オリンピックに藤田晃三を送りこむ。藤田がオリンピック代表を掌中にした全日本選手権は、いまだにファンの間で語られる名勝負であった。藤田晃三の回、前編はこのレースを中心に話を進めるとしよう。
覇権とオリンピック代表を賭けた戦い
「藤田! お前しかいないぞ!」
コースサイドで懸命に応援していた鈴木光広の姿を27年たったいまも、藤田晃三は鮮明に覚えている。
全日本アマチュア選手権時代から数えて今年で88回、全日本自転車競技選手権ロードレースは日本人だけで行われるロードレースの最高峰である。数々の名勝負のなかでも「だれも予想できない結果であった」と語られるのが、1992年6月、藤田晃三がバルセロナ1992オリンピック代表の座をつかんだ一戦だ。
このオリンピック、実は、藤田自身は「ポイントレースで代表を狙っていた」という。
知られていることではあるが、現役時代の藤田は、トラックのポイントレースも得意とする選手だった。ここで少し彼の競技歴を紹介しておくと、自転車競技に取り組んだのは岩手県大迫高校に進学後。10歳離れた兄が同じ高校で自転車競技をやっていたという。ただ、岩手県で自転車競技の名門と言えば近隣の紫波高校。大迫高校の自転車競技部は、藤田の兄の卒業後、一度なくなっていたが、
「再び同好会を立ち上げたのが、ぼくの中学の2年先輩。部に昇格させたくて、1年生を10人集めた。そのなかの一人というわけです」
高校時代のメイン種目はポイントレース。みちのく国体(1970年)の会場であった紫波自転車競技場を練習で使える、恵まれた環境だった。当然、そこには紫波高校のメンバーも練習に来る。
「当時、国体では岩手県が強くて、紫波高校のメンバーが中心。強烈に強い選手が近くにいることは、いい刺激であり目標でした」
高3の85年、紫波町で全日本選手権が開催され、藤田は「地元枠で」出場することになる。
「ロードレースはヘロヘロで完走」し、トップ選手との差を思い知らされたその全日本選手権は、鈴木光広、橋詰一也のブリヂストンサイクル勢がワン・ツー。
「85年は、国体でも光広さん、三谷寛志さんがワン・ツー。強かった」
その強いチームの一員になることになったのは、「紫波高校へスカウトにきたブリヂストンサイクルの関係者が、うちの学校にも足を延ばしてくれた」からだと言う。
藤田が入社した86年当時、ソウル1988オリンピックを目標に本格的なチーム強化がスタート。
「ヨーロッパ遠征とか、トッププロがでるようなレースを走らせてもらうとか、いいときに入りました」
90年、日本で開催された世界選手権こそ補欠で出場を逃したが、91年の全日本選手権ロードレースで3位、ポイントレースでも2位に入った藤田は、この2種目でバルセロナ1992オリンピックプレレースに派遣される(91年は世界選手権もロードレースで出場)。
当然「(オリンピックの)リハーサル大会にだけ行って、本番に行かない、という話はない」と思っていたが、オリンピックプレレースのあと、藤田は不運に見舞われる。膝を故障し、レースを見合わせて単独で練習中にクルマと接触。右太腿の肉離れでチームに帯同できないまま91年のシーズンを終え、オリンピックイヤーの92年も本調子とはいえないまま迎える。
バルセロナ1992オリンピック代表は、ロードレースもトラック種目も全日本選手権で決定すると発表されており、ロードレースの代表枠は3。つまり全日本選手権1、2、3位が自動的にオリンピック代表にもなるということだ。
ブリヂストンサイクルのエースは鈴木光広。もちろん、プレオリンピックに出場した藤田も優勝候補の一人にあげられてはいたが、全日本選手権の会場が、鈴木の最も得意としていた群馬サイクルポーツセンター(CSC)であったため、彼を本命視する見方がもっぱら。
「全日本1カ月前の国際ロード(ツアー・オブ・ジャパンの前身大会)の総合優勝も光広さんでしたから」
そしてもう一人、鈴木と並んで本命視されていたのが今中大介だ。当時、シマノレーシングに加入して2シーズン目。前年のツール・ド・北海道、国体を制し、「今中さんは脂がのっていた」と藤田も振り返る。
鈴木を擁するブリヂストンサイクルと今中を擁するシマノレーシングの対決、しかもオリンピック代表がかかっているとあっては、ファンにはゾクゾクする、双方のチーム関係者にはキリキリと胃が痛くなるような全日本選手権であったに違いない。
ロードレースに先立って行われたトラックの全日本選手権に、チームからは藤田だけが出場した。狙っていたポイントレースはというと、「惨敗」。しかし、この年の全日本選手権は、トラック種目を小田原のバンクで、ロードレースを群馬CSCで、連続して行うという日程。兎にも角にも藤田は小田原から群馬へ直行する。
オリンピックを楽しむ、ということ
群馬CSCの6kmサーキットを30周、180kmのレースには60人あまりが出走。ブリヂストンサイクルは当然、鈴木を集団に温存し、藤田は逃げのチェックにまわる。「大番狂わせ」の端緒は、序盤に鈴木が落車に巻き込まれ、大きく遅れてしまったことだ。藤田のほかにチームのアシストは4人。鈴木を引き上げるために脚を使いはたす。さらに集団に追いついたところで、今度は鈴木のバイクがパンク。結局、鈴木はレースをおりることになる。
「中盤でぼくが集団に吸収されたとき、うちのメンバーは一人しか残っていなかった。聞けば、もう脚が残ってないと言う。ぼくも脚を使っていたけれど、何がなんでも集団から落ちるわけにはいかなくなった」
そして、レースをおりた鈴木もコースサイドで声を張りあげる――藤田! お前しかいないぞ!
藤田は集団の中で回復をはかると、
「残り数周は今中さんだけをチェックしていました」
最終周、ゴールまで2km。
「最後の上りで藤野(智一、ボスコ)さんがパコンといったんです。今中さんも反応したんだけれど、あの日は調子が悪そうで、頂上で力尽きたのがわかった」
藤田も上りきったところで藤野に追いつく。後続はついてこない。
「追いつく瞬間に、『藤野さん、行きます』と声をかけて、藤野さんを後ろにつかせたんです。一人でゴールまで行く自信はなかったけれど、先頭交替がまわらない。藤野さんも脚が残っていなかった」
このとき藤田の脳裏をよぎったのは、「このまま逃げればオリンピックに行ける」だったという。しかし集団に追いつかれれば、そこにブリヂストンサイクルのメンバーはいない......。
「集団のアタマは日本鋪道で、ケガあけの大野(直志)さんがゴール一本にかけているんだろう、と」
藤田、藤野から集団まで100~200m。最後のコーナーを抜けてホームストレートに入る。「このまま二人の"さし勝負"になる」と藤田だけでなく、藤野も思っていたはずだ。ところが、まったくノーマークの選手がコーナーから飛びだしてきていた。愛三工業2年目の田中光輝だ。先行する藤田と藤野をまくり、先着。藤田はゴールで藤野にさされて3位。20歳の田中、25歳の藤野、24歳の藤田という若い3人がオリンピック代表に決定した瞬間だ。田中にいたっては、
「実業団に入ってロードレース初優勝が全日本選手権、海外初レースがオリンピックだったはずです」
「予想できない結果」と言われる所以だ。
全日本選手権からバルセロナに入るまでの1カ月あまりは、「オリンピック代表の価値をひしひしと感じた」日々だったと藤田は振り返る。岩手では出身小・中・高に「祝オリンピック出場」の垂れ幕、町役場には垂れ幕とバルーン。岩手でも、ブリヂストンサイクル本社のある埼玉県上尾市でも壮行会。そして、代表合宿。
「オリンピック代表に対してよく『オリンピックを楽しんできてください』と言うじゃないですか。ぼくは本当に楽しんできました」
それはもちろん「オリンピックに浮かれていた」という話ではない。当時「国際舞台で勝てるというイメージは持てなかった」とは、世界選手権やプレオリンピックの経験があればこそ。「ならば、ベストは尽くそう、と」
バルセロナ郊外の起伏のある周回コースで行われたレース、金メダルを獲得したのはイタリアのカサルテッリ(95年のツール・ド・フランス、ピレネーの下りで命を落とす)。藤田は84位で完走し、オリンピックを終えた。開会式の昂揚、選手村につくられた美しいビーチ、練習の行き帰り、サドルの上から眺めたサグラダファミリア、8月のバルセロナの煌めきを目に焼きつけて。
藤田 晃三 Kozo Fujita
1967年11月、岩手県生まれ。中学時代の部活動は軟式テニス部。岩手県立大迫高校で自転車競技を始める。出場できるロードレースが限られていたこともあり、高校時代はトラックのポイントレースが主種目。86年、ブリヂストンサイクル入社後もロードレースとポイントレース双方で選手活動し、国内のみならず、世界選手権、アジア選手権など多くの国際大会に出場。バルセロナ1992オリンピックロードレースは84位で完走を果たす。2000年に引退、アンカー販売課に勤務のかたわら、ヒルクライムを中心にレースを楽しんでいる。
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