オリンピアンの系譜 第2回 藤田晃三 〈後編〉 "オリンピアンからサラリーマンレーサーへ"
バルセロナ1992オリンピック代表、藤田晃三の後編は、引退後、サラリーマンレーサーとしてレース参戦を始めた藤田にスポットを当てたい。現役時代、けっしてクライマーでなかった藤田の目をヒルクライムレースに向けさせたのは、同じサラリーマンレーサーの活躍だったという。
埼玉県上尾市のブリヂストンサイクル本社には、鈴木光広、藤田晃三ら所属選手がオリンピックで駆ったバイクが保管されている。バルセロナ1992オリンピック、藤田の実車は、現在も製造が続くクロモリフレームのネオコット(RNC7)だ。
「ぼくのオリンピック出場が1992年で、ネオコットの販売開始が93年です」
つまり、ネオコットはオリンピックの舞台でいち早くデビューしたことになる。
オリンピックの1カ月半前、代表選考会を兼ねた全日本選手権まで、藤田が使っていたのはセラミックフレームのレイダック。もともと藤田は「なんであれ、機械やモノを替えることを好まない」。しかしこのときは、オリンピックまで時間が限られていても新しいフレームを使うことに躊躇はなかったという。
「高校を卒業して、最初に配属されたのが上尾工場。製造現場で働いて午後から練習していました。工場にいる人たちとは距離が近かったんです」
開発設計にたずさわる同僚の情熱や「ネオコットでオリンピックを走ってほしい」という思いを肌で感じていたし、藤田もまたそれを望んだのだ。
「いまでは趣味性の強いモデルとされるネオコットですが、本来は純粋なレースマシンだったんです。それまでの丸いだけのクロモリのパイプから、応力のかかるところは太く、かからないところは細く、と」
絞った身体で全日本選手権出場をつかむ
バルセロナ1992オリンピックの8年後、シドニー2000オリンピックが開催された2000年をもって藤田は現役を引退する。実は、シドニーもポイントレースで出場を狙っていたという。
「ところが、代表選考会の全日本で飯島(誠)にひょいと持っていかれちゃった(笑)。そこのところは、いずれ飯島が語ってくれるでしょう」
引退後は上尾本社でアンカーの販売にたずさわり、2年間は、気が向けば乗る程度、ホビーレースに参加することもなかったという。それが03年になって、全日本マウンテンサイクリング in 乗鞍にエントリーしようと思い立つ。
「ちょうどヒルクライムが流行りだしたころで、サラリーマンの村山利男さんが乗鞍で6連覇して注目されていました」
レース時間が1時間のヒルクライムなら勝機は十分ある、と踏むと、出勤前のわずかな時間にトレーニングし、大会まで3カ月かけて体重を3kg落とした。ホビーレーサーが機材にこだわるように、バイクの軽量化をはかりもした。ところが、8月下旬のその日、
「コンディションを仕上げていったのに、なんと暴風雨で大会中止ですよ」
藤田の仕事はニューモデルの発表会が始まる9月中旬からが繁忙期だ。
「それまでに、せっかく仕上げた身体をどこかで試したい、と」
すると1週間後に修善寺の日本サイクルスポーツセンター(CSC)で「都ロード」が行われるという。東京都車連に頼みこんで出場させてもらった。
「3kg絞ったおかげで、日本CSCならオールラウンダーだった現役時代より強いんじゃないか、というくらい(笑)。オープン参加だったので順位はつかなかったけれど、1着でした」
10月の終わりには、ジャパンカップのオープンレースに出場。藤田いわく「案の定」上位に喰いこんだうえに、翌04年の全日本選手権ロードレースの出場権を得た。
04年はサラリーマンレーサー藤田の快進撃がはじまった年であったかもしれない。6月、4年ぶりに走る全日本選手権は奇しくもアテネ2004オリンピック代表選考会。代表枠2をかけた決戦に、会場の日本CSCはスタート前からピリピリとした空気に包まれていた。藤田は「うちのチームのアシストのアシストをしよう、というつもりでスタートした」という。
その言葉どおり、スタートアタックしたチームの福島康司に呼応し、序盤の逃げに乗った藤田はつめかけたファンをわかせたのだった。完走14人のサバイバルレースは、最終局面で田代恭崇が抜けだし、独走で勝利。ロードレースでは、ブリヂストンサイクルから藤田以来のオリンピック代表となった。
限界に挑戦する人のサポーターとして
当時、藤田は「なぜ、現役を引退してまた全日本選手権に出場するのか」という問いに「レースは、レースの中で見るのがいちばんおもしろいから」と答えたものだ。04年以降16年まで「出場できる限りは」全日本選手権に参戦しながら、乗鞍や富士山などヒルクライムレースでは表彰台の常連。レース前には請われてステージにあがり、トレーニング法や攻略法を語る機会も増えた。「元オリンピアン、ブリヂストンの藤田さん」は、サラリーマンレーサーの星となっていく。
「全日本選手権では、完走できなくても声援は現役時代より多かったかもしれません。ぼくもレースをおりる最後の1周は、沿道に応援ありがとう、というつもりで走っていました」
さらに、ブリヂストンサイクルが企画したホノルルセンチュリーライド、ツール・ド・おきなわツアーでは、さまざまなレベル、志向のサイクリストを共に走りながらサポート。改めて「自転車の楽しみ方」の奥深さに触れたという。
「ツール・ド・おきなわの100km、40歳オーバーのレースは、エントリー開始から20分かそこらで締め切られてしまうくらい人気があるんです。中高年であっても自分の限界に挑戦しよう、新しいことを吸収しよう――そういう思いがある人たちを助けていきたいと思っています」
藤田も50代。「レースバイクとしての役割は終えているかもしれないが、支持され続けるネオコット」と自身をオーバーラップさせているかのようだ。
さて、最後に東京2020オリンピックロードレースについてたずねてみた。
「日本でホンキのレースをまぢかで見られる、まずそこがひとつの楽しみ」としたうえで、藤田があげた観戦ポイントは、富士山麓と三国峠だ。
「勝負どころという見方では三国峠ですが、集団がまだ残っている(と考えられる)富士山麓も見ていて楽しいと思いますよ」
そして、このレースが難しいのは「200km超のラインレースであること」だという。
「周回レースなら補給に失敗しても次の周があるけれど、ラインレースではそういうわけにいかない」
加えて8月の暑さ、4000mを超える獲得標高。
「暑さに強くて登坂力がなければ残れない。組織戦ができずに、意外な選手たちがメダル争いをするかもしれません。そこに日本の選手が入っていてほしい――それを期待しています」
藤田 晃三/Kozo Fujita
1967年11月、岩手県生まれ。中学時代の部活動は軟式テニス部。岩手県立大迫高校で自転車競技を始める。出場できるロードレースが限られていたこともあり、高校時代はトラックのポイントレースが主種目。86年、ブリヂストンサイクル入社後もロードレースとポイントレース双方で選手活動し、国内のみならず、世界選手権、アジア選手権など多くの国際大会に出場。バルセロナ1992オリンピックロードレースは84位で完走を果たす。2000年に引退、アンカー販売課に勤務のかたわら、ヒルクライムを中心にレースを楽しんでいる。
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