オリンピアンの系譜 第4回 田代恭崇〈後編〉"世界最高峰をめざして"
シドニー2000オリンピックに代表を送りこむことが叶わなかったチーム ブリヂストン アンカー(現チームブリヂストンサイクリング)は、アテネ2004オリンピックでは複数の出場枠を日本にもたらすべくヨーロッパを主戦場としていく。その大きな戦力となったのが、フランスのアマチュアチームで経験を積んだ田代恭崇だ。2004年のオリンピック、さらにその先にツール出場を見据えて戦った日々を田代に振り返ってもらった。
2002年、チーム ブリヂストン アンカーの浅田顕監督は、ふたりのナショナルチャンピオンをフランスのラポム・マルセイユに送り込む。前年の全日本選手権を制した田代恭崇と、全日本ジュニア選手権の優勝者で、高校を卒業したばかりの別府史之である。
それから17年の歳月が流れ、2019年のオフシーズンに、別府が移籍を公表して注目を集めているUCIプロチーム"デルコ・マルセイユ・プロヴァンス"の前身がラポム・マルセイユで、田代が所属していた当時はマチュアのトップチーム。
「プロへの登竜門といわれているチームで、U23の強い選手がたくさんいました。外国人も多くて、ぼくと入れ違いで入ってきて、フミ(別府)のチームメイトだったのがニコラス・ロッシュ(アイルランド)です」
出場できるレースも格段にグレードが上がり、プロと走れるチャンスもある。
「浅田さんは『そこで勝ってこい、勝つまで帰ってくるな』と」
この年、田代は、アマチュアのトップカテゴリーのレース(UCI 1-6)で勝利をおさめる。
UCIポイントをいちばん稼いだ
2003年はチーム ブリヂストン アンカーが日本のチームではじめてUCIコンチネンタル登録し、ヨーロッパを主戦場とするようになったシーズンだ。標榜したのは「日本のチームでツール・ド・フランスに出場」。しかし「03年は、オリンピックの出場枠を獲る年だった」と田代は振り返る。
シドニー2000オリンピックの自転車ロードレースでは、日本の出場枠は1のみ(シマノレーシングの阿部良之が出場)。アテネ2004オリンピックに日本から2人以上出場するためには、03年にUCIポイントを稼ぐしかない。
「フランス、イギリス、スペイン、ポルトガル――ヨーロッパ中を回りました」
まだ紛争が続いていたセルビア・モンテネグロでは、空爆の音を聞いたこともあるという。
この年の夏、田代は自身のキャリアのなかでナンバーワンにあげてもいい勝利を収めている。フランス・ブルターニュ地方で行われる"Mi aout bretonne"での優勝である。3つのワンデーレースがステージレース形式で実施されるもので「ツールに出なかった選手も多く出る」とヨーロッパでは注目度の高いレースだ。
その第2ステージ"Prix des Bles d'Or"(UCI 1-2)、「長い上りはないかわりに、ちょっとした丘が連続して現れるのがブルターニュ地方のレースの特徴。そんなところでスタートからアタックの繰り返しになって、前半からフラフラになるほど」だったと振り返る。
終盤25人になった集団は、最終的に11人絞られた。そして、UCIポイントが与えられるのは10位までだ。
「けん制が入って、誰もぼくを見ていない――左コーナーを突いて一気に出ました」
そのまま4kmを独走しての優勝だった。
日本に与えられたアテネ2004オリンピック自転車ロードレース出場枠は2。その基準となったUCIポイントを「2003年にいちばん稼いだ」と田代は自負する。しかし、獲得したUCIポイントによって日本のオリンピック代表が決定されるようになったのは2008年の北京大会から。
2004年4月30日、田代はアテネ2004オリンピック代表選考会を兼ねた全日本選手権に臨む。会場は日本サイクルスポーツセンター。右回りの8kmコースを22周する176kmで、チーム ブリヂストン アンカーは、福島晋一と田代をWエースに据えて臨む。
「フグ(福島)は春先、調子がいいんです。自分は(春にコンディションを)合わせたことがなかったんだけれど、このときだけは4月の終わりにピークを1回もってくるようにしました」
当日は、コースの厳しさと相まって夏のような暑さ。早々に優勝争いはチーム ブリヂストン アンカーとシマノレーシングの2チームに絞られた。最終的なリザルトを見ると、10位までにブリヂストンアンカーが3人、シマノレーシングが6人。
「終盤、うちは自分とフグしか残れなくて、シマノは人数だけは残したけれど引かない、(鈴木)真理のゴールスプリントにかけているんだな、と」
ラスト2周、田代が勝負に出る。
「フグに、次で行く、と言ったんです。自分が行けば、シマノも引くしかない」
コース最高点の上りで加速、「ギリギリ頂上を単独で越えられたので、その先の上りでもう一回踏んだ」。
田代はラストラップを独走で回り、後続に2分半以上の差をつけて01年以来、二度目の全日本選手権制覇と同時にアテネ2004オリンピック代表の座を得たのだった。もう一人の代表は2位に入った鈴木真理。3位にもシマノの野寺が入り、福島は4位。
レース後のインタビュー、オリンピック代表となったことについてたずねられると、田代は意外とも思える応えを返している。
――オリンピック代表に決まったことはもちろんうれしい。しかし、ぼくらの最終的な目標はツール出場です。
世界最高峰との戦いでつかんだ核心
田代は全日本選手権を終えると、再びヨーロッパでレースの日々にもどる。
「オリンピックにもその流れで入りました」
そして、結論から言うとアテネ2004オリンピックでは、金・銀・銅のパオロ・ベッティーニ(イタリア)、セルジオ・パウリーニョ(ポルトガル)、アクセル・メルクス(ベルギー)から8分半遅れの第2集団で完走、57位。
「ベッティーニのいた第1集団が30人ちょっと。そこに残れれば、また違う結果になったかもしれない。その前に、パンクしてしまったのが痛かった」
オリンピックのレースでは、序盤の大集団の中でタイラー・ハミルトン(アメリカ)と諍いになったという。
「ハミルトンが『ここにいるんじゃない』と言ってきたんですよ。オリンピックに限らず、ヨーロッパのレースでは、つねに最終局面に残れるかどうか、ギリギリのところで集団に居場所を見つけていましたから」
そうやって、たしかに「日本のチームでツールに出場できる」という確信を持てるようになっていたし、いまでも「条件さえ整えばできた」と思っているという。
しかし2005年のシーズンオフ、浅田顕監督が福島晋一、新城幸也らとチームを離れると、田代は、監督に就任した藤野智一とともに新生チーム ブリヂストン アンカーをけん引していく立場になる。
「本当は2005年で(選手を)やめることも考えていました。自分は、もうやり切ったんじゃないか、と。でも、チーム ブリヂストン アンカーはどうなるんだ? 自分がやるしかないだろう、と」
2006シーズン、若手中心のチームで、ヨーロッパでの活動も継続すると、2007年には早い段階で引退を決めていたという。
2008年1月、ブリヂストンサイクルに中途入社してからは、まったく自転車に乗らずに4年が過ぎた。
「乗らなかった、と言うより、乗っている場合じゃなかったんです。34歳ではじめてサラリーマンになって、まわりにいる同年代はもう社歴が10年以上あるわけじゃないですか。しかも、入社早々ポンッと仕事も任されて、これは24時間働いても追いつかない、と」
サイクルツーリズムを盛り上げる一翼として
カタログ制作、商品企画、広報、宣伝、北青山のショールームの運営など、忙しくも充実した日々を送っていた田代に、再び自転車にまたがる機会が訪れる。2013年夏、スイスで開催される"オートルート・アルプス(Haute Route Alps)"に出場することになったのだ。
アルプスを舞台に1週間にわたって開催されるアマチュアのステージレースで、総距離880kmあまり、獲得標高は21,000mを超える。田代は、俳優の筒井道隆さん、八戸学院大学学長の大谷真樹さんと"チーム・トーゲ・ジャパン"を結成して挑み、そろって、このレース、日本人初完走を果たす。とくに田代は、完走449選手中18位の好成績。
「もともと日本からチームを送り出したいから(ブリヂストンサイクルに)機材面で協力してもらえないか、という話だったんです。受けさせてもらうことになったんだけれど、走るメンバーが足りなくて、ぼくが加わることになりました」
出場が決まると、冬の間からトレーニングを開始。平日は出勤前に荒川を2時間走り、週末は富士山へ通って「上っては下り、上っては下り」を繰り返したという。
「また新鮮な気持ちで取り組めたし、楽しかった。やっぱり自転車はいいな、と」。
オートルート・アルプスから4カ月後、2013年末をもって田代はブリヂストンサイクルを退社し、新しいビジネスを立ち上げる。
「ちょうど弱虫ペダル人気でスポーツバイクブームがきて、自転車に乗ってみたい人は増えているのに、そのフォローが追いついていないと考えていたんです」
ハードを売るのではなく、ソフトの提供にニーズがあると読んだのである。
2014年春、湘南・江の島にクラブハウスをオープン。海があってサイクリングロードがあって、山も近い。加えて東京方面からのアクセスのよさ。「ここしかないと思った」という。
クラブハウスには十分なレンタルバイクをそろえ、ビギナーや女性がとっつきやすいポタリングから、プライベートコーチングまで、さまざまなプログラムで自転車の楽しさを伝える。最近では、サイクリングツーリズムの高まりから、外部から招かれてガイドの育成やコースづくりに力を貸す機会も増えている。
「サイクルツーリズムを盛り上げていくうえで、まだ人材が足りない。ぼくを『オリンピック選手』にしてくれた自転車界への恩返しの意味でも、できる限りのことはやりたい」
さて、最後に東京2020オリンピックのロードレースについて。
「間違いなく言えるのは、早々に決着がついてしまったプレ大会のような展開にはならない。スタートラインに並ぶ選手の顔ぶれが違いますから。本当の勝負が始まるのは富士山麓に入ってからだと思いますが、そこに、日本人が入っていれば番狂わせがないとは言えない。日本の暑さに強いのは、やはり日本人ですから」
リンケージサイクリングでは、体験サイクリングからプライベートコーチングまで様々なプログラムを準備し、サイクリングの魅力を発信している
田代恭崇 Yasutaka Tashiro
1974年6月7日生まれ、東京都杉並区出身。城西大学に入学後、友人のマウンテンバイクに乗ったのがきっかけでサイクリング部に入部。キャンプツーリング三昧の青春を送っていたが、仲間と参加したエンデューロを入口にレースの世界へ。96年、大学4年生でリマサンズ厚木に加入し、本格的にレース活動を開始。98年よりブリヂストンサイクリング。2007シーズンをもって引退し、08~13年、ブリヂストンサイクルの社員として販売促進や商品企画に携わる。現在は神奈川県藤沢市で"Linkage Cycling(リンケージサイクリング)"を運営し、スポーツバイク、サイクリングツーリズムの普及に取り組んでいる。
現役時代の主な成績は以下のとおり。
2001年 全日本選手権優勝
2002年 GP Esperasa(UCI 1-6)優勝、ツール・ド・北海道ステージ優勝
2003年 Prix des Bles d'Or(UCI 1-2)優勝、B世界選手権10位
2004年 全日本選手権優勝、アテネ2004オリンピック57位
2005年 ジャパンカップ7位、ツール・ド・おきなわ優勝
2006年 ツール・ド・台湾ステージ優勝
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