オリンピアンの系譜 第5回 飯島 誠〈前編〉"オリンピックという目標を見据えて"

1990年代、2000年代に活躍した、もっとも強い選手は誰か、とたずねられれば、多くの自転車ファンが "飯島誠" と答えるに違いない。25年にわたる競技人生は、ロードレースとトラックレースの"二足のわらじ"。海外のステージレースで優勝したかと思えば、トラックレースではオリンピックに出場、それも三度である。連載第5回は、飯島誠にオリンピック代表となるまでの道を振り返ってもらった。

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すべては"道志みち"ではじまった

 ちょうど35年前、1985年1月のある朝、ふたりの少年が"道志みち(国道413号線の通称)"に自転車でさしかかろうとしていた。八王子市内の中学2年生。平日だったが、インフルエンザの流行で休校中、暇を持てあまして「富士山を見に山中湖へ行こう」と、まだ暗いうちに家を出てきたのだった。
 ふたりのうち、24インチのママチャリに乗る小柄な少年の名は、飯島誠。すべては、この道中、もうひとりの少年が、自分のスポルティーフを飯島に試させたのが、はじまりだったかもしれない。

「走行感がまったく違う、見える景色まで違った」

 山中湖の凍った湖面に立ち、富士山を眺め、道志みちを引き返して八王子に帰り着くと、またすっかり暗くなっていた。
 スポーツ車がほしい――飯島少年の望みがかなったのは、それから半年後。八王子の隣町、日野にあるツルオカサイクルでロードバイクをあつらえてもらった。その記憶はいまも鮮明だ。

「吊るしのフレームにシマノの600、いまで言うとアルテグラです。もちろんダブルレバーで、フロント51-39、リアは13-20の6段。忘れもしない8万円――7月だったから、オヤジがボーナスで買ってくれたのかもしれない。うれしすぎて、毎晩、一緒に寝るくらい」

 ツルオカサイクルのチーム練習に加わり、早速、ホビーレースの中学生クラスにもエントリー。

「2戦目の西湖日刊スポーツサイクリンググランプリで10位以内に入って、『サイクルスポーツ』のリザルトに名前が載ったのがうれしかった」

 高校受験を控える中学3年生だったが、進路も「自転車競技部のある学校」に傾いていく。
 当時、八王子市内に自転車競技部のあった高校はふたつ。そのうち、父親の出身校でもある都立八王子工業高校に進んだ。

「顧問の先生が剣道家という自転車部で、練習内容はキャプテンを中心にみんなで決めていた。地元の強豪ホビーレーサーとも交流があって、多摩川べりにあった自転車練習場で一緒に練習させてもらっていました」

 1年生のときから頭角を現し、チームTTやチームスプリントでインターハイと国体に出場。寝台特急や飛行機での遠征旅行も楽しかったという。

「高2の秋が海邦国体(沖縄)で、異国の地に来たようでした」

 トラック種目をメインにしながら、チャレンジロードや都ロード、各地で行われていたホビーレースにも参加。当時、レースでよく一緒になったのが、同学年の橋川健だという。

「大人と同じレースで自分も20番以内には入るんだけれど、(ロードでは)橋川くんのほうが強かった」

 中央大学に進むと、八王子市内にキャンパスがありながら、自転車競技部の寮で生活するようになる。親元を離れたことで羽目がはずれ、1、2年は遊び呆けていたという。

「所詮そんなこと(遊ぶこと)には飽きがくる。自分が求めているものは、これじゃないだろう、と」

 再び自転車競技に打ち込みだしたころ、バルセロナ1992オリンピックロードレースの代表選考会を兼ねた全日本選手権(群馬サイクルスポーツセンター)には、飯島も参加していた。

「メイン集団に残っていたので、最終周回、心臓破りの坂で藤野(智一)さんと藤田(晃三)さんが抜けだしたのも、バックストレートで田中(光輝)くんが一気に追走していったのも見ていました」

 オリンピック代表がかかったレースの緊張感や代表が決定した瞬間の歓喜をまぢかで「すげーな」と見つめながら、まだ「オリンピックは家(のテレビ)で見るもの」だったと振り返る。
 翌93年、大学を卒業すると飯島は、東京の実業団 "スミタラバネロパールイズミ"の契約選手となる道を選ぶ。
 本場に活動の場を求め、ヨーロッパにわたる選手が増えつつあったこのころ、ついに飯島にも飛躍のチャンスがやってくる。1994広島アジア大会の強化策としてナショナルチームが組まれ、そのメンバーに抜擢されたのだ。チームの指揮を執ったのは、大門宏(当時、日本鋪道)。

「スイスを拠点に2~5月までヨーロッパのレースを走り、一度、日本に帰ってきたあと、夏からまた2カ月あちこち転戦。遠いところでは、南アフリカまで行きました」

 秋に帰国して、広島アジア大会。全体で、日本は中国に次いで2番目に多い数のメダルを獲得したが、自転車ロードレースについては、カザフスタンにその強さを見せつけられる。このとき、銀メダルを獲ったのがヴィノクロフだ。
 94年の活動やアジア大会の経験が生かされたのは、翌95年のアジア選手権ロードレース(フィリピン)だ。阿部良之(シマノ)が1位、飯島が4位となり、日本にアトランタ1996オリンピックの出場枠2をもたらす。
 そのアトランタのロードレースには、全日本選手権の結果からシマノ住田とミヤタ真鍋が出場する。

「アトランタを意識していなかったわけではない」が、オリンピック出場枠を獲得しながら出場できなかったことには、「そんなものか、と」。

 当時、飯島の目が向いていたのはヨーロッパのレースとその頂点であるツール・ド・フランス。96、97年は、機材スポンサーの伝手でイタリア・ロンバルディア州のクラブチームで走っていた。

「アマチュアではイタリアのトップ10に数えられるチームで、上りも平地もホントに速い。アマチュアでこれなら、プロの世界はどれほどか、と」

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ロード代表選考会敗北からの大逆転

「お通夜のようだったでしょう?」

 聞き手がたずねるより先に、飯島が切りだした。シドニー2000オリンピックの代表選考レースとなった、6月の全日本選手権ロードレースのことだ。このオリンピック、日本が得ていたロードレース出場枠は1のみ。チーム ブリヂストン アンカー(現 チーム ブリヂストン サイクリング)、シマノレーシングの二強を軸に、数をそろえたチームがレースをつくる。いっぽう、チーム力をあてにできなかった飯島は「後手をとってはいけないと考えるあまり、序盤から動きすぎた」と振り返る。

「ラスト2kmで阿部さん(シマノ)がアタックしていったときには、もうついていけなかった」

 レースのあと、敗北を喫したチームのテントは、いずれも重苦しい空気に包まれていた。飯島のいるテントは、ひときわ。オリンピック出場を逃したこともさることながら、「1対1になれば負けない」と自信をもって臨んだレースで敗れた悔い――だが、わずか1週間後、飯島は一躍オリンピック代表として注目を集めることになる。
 この年、ロードに続いてトラックレースの全日本選手権がグリーンドーム前橋(群馬)で開催。こちらも、オリンピック代表の座がかかった大一番だ。飯島が狙っていたポイントレースで、有力視されていたのは、スペシャリストの吉井功治と藤田晃三。だが、ロードの全日本にコンディションをあわせていた飯島もピークを維持していた。のちに藤田が「飯島がスルスルと(オリンピック代表を)持っていった」と語ったように、強さを発揮する。

「あの日は本当に調子がよくて、何をやってもうまくいきました」

 藤田が聞けばまた歯ぎしりしそうだが「楽勝」だったと言い切る。

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「ところがここで、大きな問題があって――」

 その問題とは、飯島にトラックの国際レースの経験がまったくなかったことだ。オリンピックまで1カ月余り、急きょ、ワールドカップ遠征が組まれ、マレーシアで4位、イタリアで12位の成績。

「2000年はまだ今のように情報が入ってくる時代ではなくて、誰が強いのかさえわからなかった」

 経験がない、ということでは、オリンピックをはじめトラックレースの国際大会が行われるのは板張りの250mバンク。2000年当時、いや2011年まで日本には、この国際規格のバンクすらなかったのである。

「はじめてのオリンピックは、会場の雰囲気に呑まれました」

 レースのスタートが切られると最初にアタックしたのは飯島だったが、中盤以降、「速くてきつくて、何度やめようと思ったかしれない」。そのたびに、支えてくれた人たちの顔を思い浮かべたという。レースが終わるなり倒れて医務室に運ばれる。結果は16位だったが、得たものは多かった。

「一番はオリンピックという"目標"を得たことです。選手を続けていくうえでツール・ド・フランスは夢、オリンピックは具体的な目標、と」

 4年後を見据えて、飯島の挑戦は続く。

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飯島 誠 Makoto IIJIMA

1971年2月12日生まれ、東京都八王子市出身。都立八王子工業高校で本格的に自転車競技を始め、中央大学へ進む。1993~2005年はスミタラバネロパールイズミに所属しながら、ナショナルチームでも活動。06年、チーム ブリヂストン アンカーに移籍、2010年に引退するまでロードレースとトラックレースに参戦を続けた。2000、04、08年とトラックレース(ポイントレース)で三度オリンピックに出場。リオデジャネイロ2016オリンピックにはコーチとして帯同している。

現役時代の主な成績は以下のとおり。

1995年 アジア選手権ロードレース 4位
1999年 全日本選手権個人タイムトライアル 優勝
2000年 シドニー2000オリンピック ポイントレース16位
2001年 ツール・ド・おきなわ 優勝
2002年 ツール・ド・チャイナ 個人総合優勝
2004年 世界選手権ポイントレース 6位
     アテネ2004オリンピック ポイントレース16位
     全日本選手権個人タイムトライアル 優勝
2005年 全日本選手権個人タイムトライアル 優勝
2006年 全日本選手権ポイントレース 優勝
     アジア選手権ポイントレース 優勝
2007年 全日本選手権ポイントレース 優勝
     ジャラジャウ・マレーシア ステージ2勝
2008年 北京2008オリンピック ポイントレース8位入賞

《後編へつづく》

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