【ありがとう近谷涼】競輪選手の夢を叶えるまで、そしてこれから

2017年から6年間チームブリヂストンサイクリングに所属した近谷涼選手が、今期を持って退団する。「ザ・ブリヂストン」を体現する硬派で真面目な近谷はチームブリヂストンアンバサダーとしても活動し、2020年にはチームパシュートで日本記録を樹立。自転車中長距離トラック競技の立役者である。今年日本競輪選手養成所を卒業し、競輪選手という幼少期からの夢を叶えスタートラインに立った。

競輪選手の夢を叶えるまで、ブリヂストンでの6年間の振り返り、これから目指していく姿についてインタビューを行った。

保育園の卒業文集で描いた夢、競輪選手になって

"ちょうどこの間富山の実家に帰った時に荷物の整理をしていて見つけたんですが、保育園年長の卒園式の文集で、「競輪選手になりたい」という夢を書いていたんです。4歳か5歳の物心ついた頃から補助輪付きの自転車に乗り始めたのですが、当時ら自転車という乗り物がすごく好きで。保育園が終わった後や休みの日には自転車に乗ることが多かったです。

何の番組で見たかはっきりとは覚えていないのですが競輪選手をテレビで見て、『僕もこの画面の向こう側で走りたい』と子供ながらに思ったんです。

それが、競輪選手を目指したきっかけです。"

(保育園の卒業文集に書かれた競輪選手の夢)

しかし、小中学生の間は自転車部はないため野球をやっていた。そんな中、中学2年生の時、学校のパソコンを使ってふと思い出して『競輪選手になる方法』を検索し、ヒットしたのが『サイクルスポーツクラブ』と言う名前の自転車愛好会。子供から大人まで誰でも入会できて、一緒に自転車に乗ろうというクラブ。ピンと来て帰ってすぐにここに入りたいと親に相談すると、承諾してくれた。競輪場まで行って入会したことがきっかけで、メインは野球部に所属して野球をやりながら、月2回ほどクラブで自転車に乗っていた。

高校に上がる時の一番の決断、それは、それまでやっていた野球を続けて甲子園を目指すか、自転車部に入り、自転車競技を新しく始めてみるか。今までやってきたチーム競技ではなく、個人競技は良くも悪くも自分次第。個人種目の多い自転車で自分の可能性に賭けてみたい。半年間悩んだ末に、自転車の道に進むことを決めた。入学したのは富山県の自転車強豪校である氷見高校。

「僕、競輪選手になりたいので、よろしくお願いします」と門を叩いた。しかし、顧問から返ってきた言葉は「競輪選手になりたいのは勝手だが、基礎がなってないと簡単になれるものじゃない。まずはベースを作るためのロード練習を忠実にやること。その先にお前の目指している競輪選手への道があるぞ。」

その指導方針から基本的な練習はロード、選抜大会では短距離の種目に出場していた。しかし、高校2年生の時に転機が訪れる。

「2年生に上がってすぐの春の大会で、中距離種目のタイムがすごく上がっていたんです。それで顧問の先生から、『お前は中距離種目に向いているかもしれない。このまま中距離に特化した練習をしっかりやっていけば、全国で戦える可能性がある』と言われて。自分でもその時の個人追い抜きのタイムでは手応えを感じたので、中距離種目にシフトしました。」

(高校時代の近谷)

ロード練習が功を奏し、中距離種目の能力が開花。そこから、中距離選手としての活動が始まった。日本大学に進学し、大学3年生の時にトライアウトで見事合格。トラック中距離種目のナショナルチームに加入する。

「大学4年生の時は就活とかもしてたんですよ。中距離選手を続けるか、競輪選手になるかと色々な道を考えてたんですけど、決めては東京オリンピックが決まったことですね。東京でオリンピックが開催される時に、自分が選手として熟れている28-29歳位なのは奇跡だなと思って。なのでオリンピックに挑戦しようと思い、大学卒業後も競技を続けていこうと決意しました。」

大学卒業から2年間を実業団サイクリングチームのマトリックス・パワータグに所属。2017年からチームブリヂストンアンカー(チームブリヂストンサイクリングの前身)に加入することとなった。

「(加入が決まった時は)伝統があって、野球で言ったら巨人や阪神と言ったチームなので、より一層頑張りたいなという思いがありました。『うちでやってみないか』と声をかけていただいた時は、嬉しかったですしチームに貢献したいという気持ちが高まっていましたね。」



(TRACK PARTY 2018)

チームブリヂストンサイクリングでの思い出深いレースについて、尋ねてみた。

「思い出はもうありすぎて、あれもこれも嬉しいことが多すぎて...。選べないですけど、『日本記録を更新できなければ、チームパシュートの強化を辞める』とコーチに言われ、背水の陣で臨んだ2019年の全日本トラック選手権ですかね。


(2019年全日本トラック選手権 手前が近谷)

走順やギア比なども試行錯誤して、後がないのでみんなめちゃくちゃ気合が入っていたんですよね。『これでダメだったら俺たちもう終わりだ、ここで夢が絶たれるんだ。』っていう。

予選では記録が更新できなくて、決勝が最後のチャンスでした。一走の窪木さんが役割を終えて離脱した後に、僕達に向かって声を枯らしながら声援をかけてくれて。そのシーンは今でも脳内に鮮明に思い出されます。みんなの思いが一つになり、会場もシーンとして僕達の走りを見守ってくれていました。結果的にその決勝で日本記録を更新することが出来て、チームスタッフの雰囲気を含めて会場全体が盛り上がり、とても印象深かったですね。」


(2019年トラック全日本選手権 日本記録を樹立し選手・スタッフと撮った近谷お気に入りの一枚)

チームパシュートの東京2020オリンピック出場は叶わなかったが、チームは翌年の2020年、ベルリンで開催されたトラック世界選手権で3分52秒956を叩き出し、この記録を更に塗り替えることとなる。現在はメンバーの入れ替わりも経て、チームブリヂストンサイクリングは新体制でチームパシュートのパリオリンピック出場を目指している。そのためにまずは近谷の持つ日本記録更新を成し遂げなければならない。近谷は現在のチームの活動をどう見ているのか。

「この間の世界選手権ももちろん見ていました。自分が持つタイムを抜かれるのは複雑な気持ちもありますが、ずっとこのチームに所属させてもらって、(チームパシュートの強化を)始めた時の4分13秒から3分52秒まで約20秒位タイムを上げて。日本という国が自転車の強豪国になろうという中、僕も同じ思いで頑張ってナショナルチームに所属させてもらっていました。タイムを見てもそうですが、自分がいた時からも明らかにレベルが上がっています。みんなの力は近くで見てきて良く分かっていますし、今でもよく電話で話します。これから3分50秒、ゆくゆくは40秒台と更新していって欲しいなと思います。常に結果も見ていて、応援していますし、期待しています。」

競輪と中距離選手の両立は性格的に難しいと判断した近谷は昨年、ナショナルチームを辞める決断をする。

「一つのことに真っ直ぐ打ち込みたいという思いと、競輪一本でやった方がより本気になれるなという思いから決断しました。競輪に打ち込む日々ですが、毎日充実していて『(自転車に乗りたくて)早く明日になってくれないかな』と思っています。もう15年間も自転車をやっていますが、そう思える自分がいる時点でこの決断は間違っていなかったな、まだまだ頑張れるなと思えています。」

目を輝かせてそう話してくれた。6歳の頃からの、競輪選手になるという夢を叶えてスタートラインに立った近谷に、今後の目標を聞いた。

「競輪の養成所に行ってタイムを測ったときに200mの短距離種目で70人いる中で最下位だったんですよ。ここまで自転車競技をやってきて最下位を取るってなかなかなかったので、結構心に来るものがあって。だから、そこからはもうコツコツやっていくしかないなと思って。競輪選手としては一からのスタートだと思っているので泥臭く毎日がむしゃらにやって、少しずつ結果を出していけたらいいかなと思っています。

30歳になり、競輪選手になるという幼い頃からの夢は叶ったのですが、折角この世界に入れたので少しでも長く競輪選手という職業を全うしたいと思っています。50歳を超えても元気で自力を出せる、先頭に立って走れるような選手としてやっていきたいという目標は自分の中に掲げています。」

トラックチームに転換した2018年からずっとチームの立役者として牽引してくれた近谷の活躍は、しっかりとチームに受け継がれている。一度決めたら真っ直ぐに突き進み、今までの経験が点と点で繋がり競輪選手という夢を叶え一歩踏み出した近谷涼をチーム一同、これからも応援していきたい。

Text: Lynn Watanabe

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