【窪木一茂】パリ2024オリンピック日本代表候補選手/チームインタビュー

【窪木一茂】パリ2024オリンピック日本代表候補選手/チームインタビュー

パリ2024オリンピックに出場する、日本代表候補に選出されたチームブリヂストンサイクリング選手へのインタビューです。

ここ数年の窪木一茂は、世界大会における表彰台を何度も獲得してきています。ネイションズカップでは男子オムニアム3位、男子マディソンでも3位に。男子チームパシュートでは、チーム全体のレベルアップを図る立役者として、近年の日本記録更新には全てメンバーとして関わってきました。そして世界選手権、男子スクラッチ種目では2年連続で銀メダルを獲得。

リオ2016オリンピックにも出場した窪木は、次のパリ2024オリンピックでは3種目に出場。名実ともに日本の自転車中距離競技の第一人者として、メダルを狙います。


窪木一茂 パリ2024オリンピック出場に向けたインタビュー

くぼき かずしげ/1989年6月6日生・福島県石川郡古殿町出身
チームブリヂストンサイクリング・チームキャプテン

・パリ2024オリンピック 出場種目:男子チームパシュート、男子マディソン、男子オムニアム
・2023年・2022年UCIトラック世界選手権 男子スクラッチ2位
・2016年リオ2016オリンピック 男子オムニアム14位
・2015年 ロードレース全日本選手権チャンピオン

公式プロフィール >>【選手紹介2024】窪木一茂 プロフィール

⚫︎Instagram @kazushige_kuboki
⚫︎公式サイト https://kazushige-kuboki.com/

ーー自転車競技に関わるようになったきっかけやエピソードは?

18年前ですかね、16歳の時でした。高校1年生までサッカーとかバスケットとかいろんな団体種目をやってきました。すごく好きでやってきたんですが、全国大会には行ったことがない。昔から、上を目指したいという意欲があって、でも団体競技だと足を引っ張り合ってしまうことがある。だから、個人種目をやってみたいって気持ちになってきたんですね。

高校ではサッカーかバスケットか陸上をやろうと思っていましたが、当時の強い部活は、ハンドボールと野球、そして自転車だったんです。
たまたま自転車部に見学に行く同じ町の友達がいて。彼はもう自転車部に入るって決めていて。その友達に誘われて見学に行きました。

ーーどんな印象でした?

『なに、この部活?』みたいなイメージです。なんか自転車に乗ってローラーに乗って、すごいんだけど、かっこいいな、って思いましたね。そのローラー練習に同じ町の先輩がいたので見ていたら、ジャージにJAPANって書いてあったんです。その先輩が高校3年生にして、日本代表だったんですよね。その姿がかっこいいなって思って。

そこから2ヶ月悩みました。個人種目はそれまでやったことなくて、がんばった分だけ結果が出せる自転車競技をやってみるかな、ってなって始まりました。お金もかかるとわかっていたので、親に相談したんですよね。9万9千円くらいの白いロードバイクを自分で見つけて、かっこいいなと思って、親に買ってもらったのが始まりです。買ってもらったんだから辞められない、頑張ろうと思って。

ーー自転車競技の難しさと楽しさは?

難しいところは2つ3つあるけど、まずは自転車を扱うテクニックですね。道具を扱うという部分。あとは練習で一般公道を走ることがほとんどなので、危険と隣り合わせにあるってことですね。

楽しさは、僕はここまで続けてきてるから、楽しさがほとんどです。楽しいから続けてこれてるんでしょうね。

ーー楽しいのは、勝利することも含めて?

それはありますね。何回か優勝させてもらっていますけど、それはやっぱり、勝つために努力してきたからです。もちろん報われない努力もありましたが、でも続けてきたことで、他のみんなよりもちょっと秀でられたということ。でも勝てるかどうか分からない、いつまで続くか分からない努力は続けられないもの。それで投げ出してしまうんではなく、辞めずに努力を重ねてきたことで力が付いた結果、勝てるようになったと思っています。

ーーオリンピックを意識したのは?

大学を卒業する前、4年生の時です。ロンドン2012オリンピックへの選考がかかっていて、順番で言えば3番目ぐらいでした。上には日本大学の先輩が2人いて。どちらも今の僕たちのチームブリヂストンサイクリングみたいな感じで、トラックとロードをしていて、ものすごく強かったです。その年に僕はワールドカップに行って、成績はダメだったんですが、その世界の雰囲気というか、オリンピックの雰囲気のようなことを味わって。それで大学卒業したら、次のリオ2016オリンピックを目指してみようかなと思ったんですよ。

ーーそのリオに出場する1年前の2015年に、ロードレースの全日本選手権で勝利。そこから競技者としての人生が大きく変わった?

いえ、それはもともと僕の計画には入っていました。大学4年の時に書いた計画があるんです。2013年にこれを優勝して、2014年はこれ、2015年はこのレースに優勝して、2016年にはリオ2016オリンピック出場するという。そして2016年からはヨーロッパのチームに移籍してヨーロッパで活動する、という目標があって、全てそれに合わせてステップアップしていきましたね。

ーーリオ2016オリンピックでは、何かを達成した感はあった?

振り返れば、視野が狭くなっていましたね。選ばれて、頑張らなくちゃいけないっていうことで。楽しまなくてはいけない、という気持ちもありましたが、本当に余裕がなかったですね。

選手村は楽しかった思い出はありますし、経験できないことをさせてもらって充実してたなと思いますけど。それに当時はメダルを目指すとは言っていたものの、今とは全然違うイメージで言っていました。

ーーそれは口が言ってるけれども、心は信じてないみたいな感じですか?

そうですね。

ーーリオ2016オリンピックが終わってすぐに、東京2020オリンピックに出場するというイメージはあった?

トラックではなかったです。実は、ロードレースで東京2020オリンピックに行きたかった。そもそも当時はヨーロッパでロード選手として大成したかったので。

ーーそれがまた改めて目の前に出てきたのはチームブリヂストンサイクリングに入ってから?

チームブリヂストンに声をかけていただいてからです。入ってからというより、東京2020オリンピックを目指す前提で日本に帰るという話だったので、悩みました。

ヨーロッパ生活を2年過ごし、もう1年は海外チームでの走ることはできた。だけど、ブリヂストンから話をいただいた。それと同時に東京2020オリンピックのロードレースのコース変更が発表されて、平坦基調のコースからクライマー向けになって、うわーっ、厳しいなと思ったんですよね。その中で、声をかけていただいたので、トラックで目指してみよう、となった。

ーーですが結果的に東京2020オリンピックは出場できなかった。今はその事実をどう振り返る?

実力が足りなかったんでしょうね。実力が足りなかったし、時間も足りなかった。

オリンピックってやっぱり、2年前から始めて追っていけるような夢では到底なかった。その前から、生活かけて人生かけて挑んでいかないといけなかった。甘くなかったというところですね。それに僕の東京2020オリンピックに向き合う時間が少なかった。思い残していることが多かったと思います。体力はあったんですが、他の様々な要素を含め、2年じゃ足りなかったなって思いますね。

ーー東京2020オリンピックの選考結果の後に、パリ2024オリンピックを目指すために、何か変えたものはあった?

僕の中で2012年くらいからずっと、スプリント能力に課題を抱いていました。スプリント能力を得るために何かしなければいけないと思っていた。それをしっかりと学べる場所が、競輪選手養成所だと思ったんです。

ナショナルチームに海外から今のブノア(・べトゥ氏、現日本ナショナルチームテクニカルディレクター)たちコーチが来て、海外のトレーニング方法を学ばせている。でもスプリントを学べるのは短距離チームだけだった。じゃあどこでその練習ができるかといったら、競輪選手養成所だったわけです。それで競輪選手養成所に入所しました。

ーー競輪選手養成所を出て改めて一選手としてパリ2024オリンピックを目指すとなった時、感覚はどういう風に変わっていた?

それもチームメイトに助けられたと思います。卒業まで長距離的なトレーニングはしていなかったので、体重も重かったし、脂肪も蓄えていました。ですけど、チームにいた選手たちがパリ2024オリンピックに向けて頑張っていた。だからチームメイトたちと練習することで、ここまで体を戻さないといけないんだって思えて、ロードトレーニングで、登り坂で千切れても必死についていきました。

みんなが中距離の基準を維持してくれていたのが頼もしかったです。僕はスプリント能力を身に付けに行ったけれども、長距離のレベルは低いところにあった。けれど、みんなと同じところまで戻るという目標があった。戻るのに1年かかりましたね。そこから2022年の世界選手権では銀メダルを獲れましたし、うまく長距離と短距離トレーニングが、かみ合って結果を出せるようになってきました。

ーーパリ2024オリンピックに向けた再トレーニングの一つの表れが、2年連続、世界選手権でのスクラッチ種目銀メダルですか?

それはあります。でもその前の4月に、今村選手とマディソンのネイションズカップで2位を獲ったこともすごく大きかったですね。その時はとても有力なメンバーも国も来ていたなかで、マディソンをメダルを獲って、大きな自信になりましたね。(>>レポート

ーーパリ2024オリンピックの代表候補選手として選出された時の気持ちは?

それまでが今までにないぐらいいい結果が出ていたので、自分が選ばれるだろうとは思ってはいましたが、すごく不安はありました。選ばれて、ほっとしました。でも何も変わらないし、舞い上がることもないです。それまでの結果も、全部たまたまだ、偶然だ、っていう風にしか思っていませんから。

ただ世界選手権のスクラッチで2回目の銀メダルを獲ってからは、自分のスピードに対しての自信がつきましたね。特に最後のスプリントでの駆け引きで。周りも評価してくれました。

ーー戦略が変わった?

それはあれなんです。自転車と友達になってきた、っていう感覚です。自転車が自分のものになってきたっていう感覚ですね。だから乗っていても全然辛くないし、いいポジションを見つけられるようになってきた。だから全然キツくないんですよね。

ーー乗ってきたブリヂストンの自転車への印象は?

まずトラックバイクが先にできて、その遺伝子を受け継ぐ形でロードバイクのRP9ができた。トラックとロードで目的は違うけれど、乗り味は結構近いです。剛性が高くて、安定している。

トラックとロード、僕たちは普段、1日にどっちも乗ることがあるから、それはすごく大きいと思いますね。例えばトラックとロードが別メーカーだったら今の結果は変わってきたんじゃないかな。どっちもブリヂストンで、トラックを基準にした速い自転車をロードでも乗っている。操作性も似てる。だから両方プラスに作用したのかと思いますね。

ーーその特性を言葉にすると?

もう言葉にはできないですね、体の一部になってるから。例えば『ふくらはぎの特性は?』って言われたら、『えー』って思うでしょう。そんな感じです。でも扱いやすいですよ、おすすめできます。

ーーチームブリヂストンサイクリングに入って7年目、学んだことは?

気がつけばもう7年、僕は28才から34才までいるわけですから、自転車に限らずたくさんのことを学びましたね。

感謝すること、支えられていること。僕たち選手が選手として成立できていることの大切さ。これまでの60年にわたるチームの成り立ちがあって、僕たちは活動できていること。そういうことを知ることによって、感謝することを再確認させてもらえたなと思うし。チームから学んだことは多いです。

チームメイトから学んだこともあります。競技力が高い低いじゃなくて、その選手の自転車に対する考え方、競技に対するひたむきさ、とか。オリンピックを目指す意識の高い選手が集まっていたことで、僕が得られたことは大きいと思います。

ーー競技の中で最も心を支えているものは?

やっぱり向上心ですね。負けたくない、上に行きたいっていう向上心。これは今も昔も変わらないかなと思いますね。その満たされない、物足りない毎日をがむしゃらに生きるという感覚です。

ーー自転車競技を通して表現したいこと、伝えたいメッセージは?

僕は変わってるのかもしれませんが、『自転車だけじゃないよ』っていうメッセージですね。

僕は常に自転車が好きで、自転車しかないと思ってやってきています。でも、それができているのは、そうでないことと隣合わせ。自転車がなくなったらどうしよう、と常に考えてもいます。

自転車がなくなっても生活していかなきゃいけない。自転車がなくなったら、これまで積み上げてきたことがなくなって、自分に何が残るんだろうとか思うわけです。そう考えることで、より自転車のありがたみを知って、だからこそ余計に自転車を大切に頑張らなくちゃいけない、とも思える。

例えば自転車のない生活になったとする。でも、それで本当に楽しいのかなって。多分そうじゃないと思う。自転車を追いかけたい自分がいるから、だから余計にありがたみを持って、今やってる自転車に僕は取り組んでいる。そういうことです。


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*ブリヂストンサイクルはオリンピックのワールドワイドパートナーです。

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